昭和四十七年八月八日 朝の御理解
x御理解 第二十八節 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸が えをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はで きぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も 途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるま で、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよ う元気な心で信心せよ。」
二、三日前もここは頂きましたですね。それは大変難しい、まあこの二十八節の決定版という感じのする御理解でしたね。
病気災難の根が切れるまでというのは、成程、ここで壮健で一心に信心しなければ出来る事ではないのですけれど、いうならば、普通で言う病気災難でも、それをおかげと頂ける、神愛と頂ける程しの信心が出来た時には、もうそこには病気も災難もないのだというような御理解でしたよね。
ですから、これはひとつの、それはもう手が届かない、理想はそうだろうけれどもそげな事は出来んという事は決してないです。
やはり稽古です。これはもう本当に稽古です。それを本当に難をすぐおかげと感じれるようになるのですから。やはり手の届かない程しの難しいという事じゃない。
けれども、やはり私は最高の信心だと思うですねぇ。先日から、大牟田の先生のあれを例にいろいろ御理解頂いたんですけれども、そんならここまでの頂き方だって、まあ素晴らしいですよねぇ。
変わった事のあるのがおかげと頂けるのですから、それをおかげにさせて頂くのが道の信心と。もう本当いうたら、それは即おかげなんですけれども、ここんところへまあだそれを本当のおかげとして行くという事に、まあ、ちょっと時間があるといった感じが致します。
けれども、ここまででもわからせて頂くという事は大変な事ですね。まあ、そういう意味で事実がそうなんですから、信心しておって、変わった事が起こってきたら、それはおかげなんです。やはり、だからそれをおかげと実感出来れるところまで、やはり一心に壮健でと、おっしゃる。その元気な心で信心をしよらんとね、それをおかげをおかげと頂ききらんのです。
今日私は、z御神前で頂いた事は「砌」という字を頂いた。私はそれを頂いてすぐ感じた事は、石を切ると書いてありますから、石というのは心なんだ。心をスキッと切っていくという事。
次に、z流れ川三尺と頂いいた。次に、これは御心眼にね、それこそみず々し草花ですけれども、そのちょっとこう、枝ぶりが悪い。けれども花もきれいな花が咲いているし、葉も生き生きとしてるという切り花を頂きましてね、そういうような事から、そしてこの二十八節を頂きましたんですから、まあ全体的な木の姿じゃなくて、根の切れるという事。根という事は心という事。
心を切るという事。家の根は先祖と言われとるし、私共の根はやはり心なんです。 ですから、そういう意味で、私共の根、いわゆる心を切るという事。という事は、自分の心の中に、いつまでも汚いとか、いうならば、よくない心、濁った心とでも申しましょうか、そういう心をスキスキと切っていくという事。
この辺のところをね、焦点に皆さん聞いて頂きたいと思うのです。これは私、二十数年前の信心から、ず-っと思うて参りますともうお礼を申し上げねばならない事に非常に自分の心の呵責というものを感じてですねぇ、もう、只、お詫びばかりをしておったという時代がありました。
むしろお礼を申し上げねばならないことを、それを何という自分は汚い人間なんじゃろうかとこう思うてね、お詫びばかりをしとる。
だから、これはおかげ頂けません。もう本当にいうたら、今日思う事は、お礼ばあっかりでよい事ですね。今日、そんな感じがするんですよ。
だからお詫びというならば、お礼の足りないお詫びをしたらいいです。せないけんのです。もうこれは限りがありません。思えば思う程。
だから信心がわかるという事はね、おかげをおかげと実感する事だと言われております。おかげをおかげと実感する、信心がわかってくればです、あれもおかげこれもおかげとわかってくるんです。もう全てがおかげとわかってくるんです。
だからおかげの世界に住むから、有難いなあ、勿体ないなあという事になるのです これはもう信心でなからなければ味わえも出来ないし、頂けない境地です。ですから、もうお礼だけです、本当いうたら。
けれども、私共は生身を持っておりますから、それがお粗末御無礼のように思うわけです。又事実お粗末御無礼も出来ます。沢山ありますけれどもです、けれどもその事でもです、例えて申しますと、もうここ二十何年か前だったですけども、もう、それこそ何年間か、お粥さん一碗だけです、過ごした時代がありますからね。
それが段々おかげを頂くようになって、二度のお食事を頂けるようになった。しかも御馳走なんか沢山ありますと食べすぎる程しに頂くような、おかげを段々頂いてきた。それはもう、一碗修行でもさせて頂いておる時には、もう御飯を、お粥さんを頂く時にですね、もう明日食べる事を心の中に楽しませて頂く位にあるですよ。
こら本当に、それは汚いと言や汚いですよねぇ。もう明日食べる事を考えよる。いや考えるじゃない、明日が楽しいのだ、深刻ですよね。
けども、そういう辛抱、そういう修行させて頂いた後の事でございますから、いうなら、腹いっぱい頂かせて頂けるという事。
丁度お昼に家内が食事を作ってきてくれましたけれども、もう見ただけで頂きたくないわけです。そん時に私は、神様おかげを頂きました、本当にもう例えば、こんなに御馳走が目の前に出とりますけれども、それを頂こうと食欲が起きらん程しに最近はおかげを受けておりますと、お礼を申しま上げたら、バチ-ンとおいさみを頂いた事があります。
だから、お礼という事は、どこでも申し上げる事が出来るという事。もうそれこそ食欲が起きらん程しに、最近はおかげを頂いておりますというわけですねぇ。
お互いが毎朝、洗顔をしない人はありますまいが、毎日洗顔をする。口をゆすがせて頂く、あれをね、頂いたままにしておくからいかんのです。
支那料理なんか、どきついような、脂っこいものを頂きますとね、本当にその場できれ-いに口中を清潔にしておきませんといけません。
私共の心でも体でもそうです、私共は、どういうような場合、どういうような場面にもおかげを頂いて、どういう場面ででも、いわゆるお礼を申し上げれる心、そういいう心が私は今日頂く、流れ川三尺という事じゃなかろうかと思う。
それがどうでしょう、もうどんなに汚いものでも、洗わせて頂いたら、もうその水は三尺流れたら、もうそこで食器でも洗えるというのが流れ川三尺。
汚い鍋とか、はがまとか、洗うと真っ黒くなるようだけれども、もう流れ川三尺、ちゃあんと流した後には、又きれいな茶碗でも洗える。
だから、私共の心がね、そのように、さらさらとね、流してゆけれる心の状態というものが、私、ここ二十何年間の間に、そういうおかげを段々頂いてきたと思うのです。そんなら、二十年なら二十年前は、もう本当に汚い、汚いというものがいつもそのへんに澱んでおったという感じがする。それではおかげが受けられません。
まあ、具体的にいろいろ申し上げられんのが残念ですけれども、お互いの上でもそうです。自分の心の上に、例えばそれは、お粗末御無礼を感じさせて頂いてもです、それでもどこかお礼を申し上げれる心。
もうお礼を申し上げる時にですね、スキッとしてくるです。それは例えば、朝起きて何かべたべたするような感じに顔がありますけれども、そのまま出てきたら、やはり汚い。けれども、石鹸でもつけてスキッとあらったら、スキッとする。もうそれでおかげの頂けれる心というのがあるわけです。
それをスキッと洗わないから、だから結局信心とはもう本当に改まりたい、研きたいという、こういう一念がいつも心の中になからにゃならん。
改らにゃ、改らにゃといつも寝てもさめても思うとる。もう、限りなく美しゅうなろうとも、研こうとも思うとる。
けれども、その美しゅうなりたいとおもうとるその矢先に、又こんな汚い事になってしまった。そこを繰り返させて頂いておるうちにです、洗えば元のいうなら体にならせて頂ける。
それを例えばお風呂に入らせて頂いて、もう洗い桶に何かこう脂がつくようにあります。そのあかを見て、その水を見てです、まあ何と自分は汚い自分であろうかというような頂き方じゃなくてね、こういう汚いものが今、私からはずれていったというお礼でなからなければならん。
このようにして、いうなら、巡りのお取り払いを頂きよるんだとお礼を申し上げていく心がいるんです。
私は、砌というのはそういうお粗末、御無礼の出来たその節にです、石を切るという事。心を切っていくという事。そしてそこにあるものは、お礼ばかり、しかもお礼ばかりがです、いくらお礼を申しあげても、申し上げてもお礼の申し上げようが足りないというお詫び。お礼の足りないお詫び。お詫びはそこでなからなければいけん。 一心に壮健で繁盛するよう、元気な心で信心せよ。もう問題はここです。この元気な心で一心に信心させて頂いておらなければ、今日私が言う事はピンとこないと思うです。神様に一心に心を向けておる時でなければ出来る事じゃありません。
そのお礼というのは、お礼言うとおりさえすりゃ一心とかいう事でなく、心からお礼が言えれるという事ですから。
そこで私は枝ぶりの悪い花を頂いたんですけれども、どんなに、姿、形がよいというてもです、あの人は仏様のような人、神様のような人と、心がよい人であってもです、その心がね、いうならば、しおれておったり、枯れておったりしたんでは、どんなにお華の名人だって、その花を取り上げようともいたしませんですよ。そうでしょうが。
この松は、とても枝ぶりがよか、ばってん赤うなっとるなら、もうお華にはならんです。いかに、その一心に壮健で、元気な心でと生き生きとした信心が求められておるわけですね、そこに。
枝ぶりは悪うてもです、神様はそれを生かす事の名人でおありになりますからね、いうならば、お華の名人が、どんなに枝ぶりが悪いとでも、その枝ぶりの悪いところを生かして、よく苗なんかに使ってありますのは、こう曲がったごたるとを、その曲とらにゃならんところに、それはちょっと持っていって下さるんです。神様は。
お華の名人がどんなに枝ぶりの悪いのでもです、名人のいうなら、華を活ける人にその花を与えるならば、それを必ず素晴らしく活け上げるようなもんです。
そんなら私共の心が曲がっておってもいい、例えば、汚れておってもええけれどもね、ただし、みずみずしいまでに、生き生きとしておらなければいけないという事。 しおれておったら、どんなに枝ぶりがよかってもその枝ぶりまで悪かなら、いよいよいかん。ですから、私共が自分自身を眺めさせて頂く時です、まあ本当にどうしたひねくれた根性じゃろうと、思うような時がありましょうが。自分の根性に対して。 そういう例えば、自分の心を眺めさせて頂いて、このように、いうならひねくれた私でもです、お役に立ちたい、立ちたいの一念はです、もう誰にも負けないというもでなからなければいけないという事。
だから私は、根がきれるというような意味での、今日はそこんところにしぼってお話をしとりますから。
という程しのおかげを頂く為にはね、私共がそういう生き生きとした、みずみずしいまでの、お役に立ちたい、立ちたいいわゆる御用に使うて下さいという願いというものがね、なされなければいけない。
それがそんなら、枯れておったり、しおれておったり、みずみずしさがなかったらこれはどんなにお華の名人だってそれはとりあげませんよね。
神様はいうならば、そういう、どういうひねくれた例えば、よしそれが悪人であっても、私共がそんなら悪人の自覚に立たせて頂いてです、私のような例えば根性のひねくれた私でもです、信心がわからせてもらえれば、わからせてもらうほど、お役に立ちたいと思います。
それがいうなら、生き甲斐なんです。神様に喜んで頂く御用をさせて頂きたいけれども、あれこれ言われても、いうならば、持って生まれたといったものは、なかなかそれを正しくという事は出来ませんけれども、それでもお役に立ちたいという願いを私共させて頂く時です、その枝じゃなからなければ出来ところに、持っていって使うて下さる。
私共もやっぱそうだと思う。もう実にそのだらしがない。そういう例えばそんなら私でもです、もうこれは誰よりもお役に立ちたい立ちたいという願いというものは、もう絶えず持っておる。又、そう思うておる。
そのみずみずしさをです、神様は買うて下さったんじゃなかろうか。いわゆる元気な心で信心しておる、そこんところを、神様は買うて下さった。買うて下さってという事はそこを認めて下さった。そこを使うて下さったという感じがするんですよ。
不思議です、神様に使うて頂くという事からです、私共の心の中には、もう本当に心が安らいでまいります。もう、神様がね、例えば許されたとかね、許されるという心が非常に強くなっくるわけです。
ですから、どんな場合であっても、神様、すみませんというような生き方になったら、もう神様がすぐ許したといったような感じがこちらへ頂けてくる。
又はその事をです、私共の心の使い方ひとつでは、そんならお礼という事に高めていけば、尚又有難い。それこそ、どのような場合であっても、そんなら生きておる印と、例えば思わせて頂いたら、どのような例えば、いうなら、食べ過ぎたところで、いやしい事をしたところで、とてもこれが生きとる印だと、健康のおかげ頂いとる印だと、例えばそこに実感が頂けるなら、その事をお礼申し上げたら、食べ過ぎたくらいの事は、神様がちゃんとこう、下るようなお繰り合わせを下さる。
例えはその、口中が臭いという事なんかね、自分ではなかなかわからないものです ですから、本当に自分の事はわからんというのはそんな事なんです。
ハ-ッとしたくらいの事じゃわからん。けれども、相手の人がそこにおりますと、あの人は息が臭いという事がわかるけれども、結局、息の臭い私という自覚をいつも持っとかんと、研きもしませんし、何時は歯磨きにも口中の臭いを消すようなのがあるそうです。
でなかったら、仁丹でも含んどきゃまあ、ばさらか悪い臭いがせんですむ。けれども、やはり何というても、根本的なのは、これなんです。息が臭いという事は、やはり胃腹なんだ、胃腹の悪い人は必ず息が臭い。
ですから、しんからやはり胃腹が健全にならなければ、いわば臭いのはとれんのです、本当は。根本的にいうならば、いわゆる石を切る、自分の根を切る、臭い元を切ると、それでも例えば山羊肉なんか食べますと、やはりニンニクの臭いがする。
ラッキョオを食べれば、ラッキョオの臭いがプンプンする。だからと言うてです、自分は何という臭い人間じゃろうかと、例えば言うのではなくてです、それをスキッスキッと流れ川三尺で洗うていくという信心。そこから自分の助かりの場というものがいよいよ広がってくる。
これはじ-っと思わせて頂きますのに、もう本当に詫びて詫びて、詫びぬいて、お詫びに徹するという素晴らしい信心をする方達がありますけれども、確かにおかげを受けませんようですね。
お礼の玉水といわれておる。お礼の甘木と言われておる、お詫びの高橋と言われたですね。いわば当時の偉い先生方ばかりを表したわけです。
願いの玉水、お礼の甘木と、だから、玉水やら甘木やらは、あのような、それこそ当時日本一と言われるような御ひれいを頂かれたでしょうが。
いかにも詫びるという事は、謙虚なようであってその詫びに徹していくという事。 そんなら、あの素晴らしい事なんです。高橋正雄先生なんかは、もう、それこそ金光教、教団きってのやはりお徳の高い先生でしたけれども、結局お詫びに徹せられた方だった。ですから見てごらんなさい。おかげというものが伴うておらんでしょうが だから、もうお詫びをせんでよいという事じゃない。やはり、見ること、見ること自分を見る事と高橋正雄先生がおっしゃった。
そして、自分を見れば見る程に、人は感じきらないところにまで、自分の汚さ、自分の見苦しさというものを感じられた。
そこから、あの人のせいとか、この人のせいとかいったものじゃなくて、結局、私が悪いのだと。
椛目もそういう時代がありました。もう、それこそ郵便ポストの赤いのも、電信柱の高いのも皆んな自分が悪いのだという生き方でいきゃ、問題は起こらんのだという時代がありましたでしょうが。
成程、問題は起こらん、そういう生き方でいきゃ、家庭も円満にいくです。けれどもそれだけではいけん。そして、そんなら願いの信心に、又は今日私はそこんところを、お礼の信心で聞いて頂いた。
どういうような場合であっても、同じ事なんですよ。いうならば、そんならここに久富さんと高橋さんがおられますがね、そんなら、同じ悪い事をしたとしましょうか人間的に。それを、そんなら繁雄さんは生きておる印と頂かれて、お礼を言われるとするか、高橋さんはそこんところをいうならば、本当に何という汚い自分じゃろうかと、相すまん、相すまんという、同じ事柄でもそういう事なんです。甲の人はお礼を言うとる、乙の人はお詫びを言うとる。
そして、そんなら結果はどういう事になるかというと、お礼を言うておる人が、やはり大きなおかげを受けておるという事。だからお礼を申しても、申しても尽きる事はない。それが信心がわかってくるという事は、いわゆるおかげの世界にある事がわかること。あれもおかげこれもおかげとわかる事。
今までは平気にしておった事が、とてもとても平気でしておった事の例えば相すまない事がわかってきてお礼を言わせて頂く。
そしてお礼を言うても言うても足らん。そのお詫びをするという。だからお詫びはそういう意味でもお詫びでなからなおかげにつながらないように思う。
お礼の甘木、願いの玉水、これだけはそんなら、あのように素晴らしいおかげを受けておられるでしょうが。そんなら有名という事にかけては、高橋先生が一番有名だったでしょうねぇ。いうなら亡くなられた時なんか、教葬でしたからねぇ。
教団があげて高橋正雄先生のお葬式はあげられたくらい、いわば功労者なんです。 徳がなからにゃ出来るこつじゃありません。甘木や玉水は、そんなわけじゃないけれど、けれども、おかげを受けておられるという事は、もう、それこそあれよ、あれよというおかげを受けられたのは、玉水であり、甘木であるという事。
そんなら、甘木の先生の、又は玉水の先生のその中心であるのは、どこであったかと言うと、もう、願って、願って、願いぬいてゆかれたのが、玉水であるならばです甘木の親先生はもう、それこそ十のものならお礼が八、といわれるくらいにお礼につきられた。
大体いうとね、お礼もお詫びも、又は願いもね、せんじつめてまいりますと同じなんです。けれども私共は人間のひとつの感覚というのを持っとりましょう、ですからわが心で払う事もありゃ、犯すこともあるといったようなものがあるわけですよ。
だから、自分の心次第でです、同じ事柄の場合でも、ある人はおかげの頂けれる心の状態である。同じ事柄であってもみじめになってゆかなければならないような心の状態である人もあるわけです。
ですから、今日私が申しますように、本当にその流れ川三尺的なね、もうスキッとして流してゆけれる心の状態を稽古させて頂く。
だから、そういう心の状態が出来てくる事の為にです、枝ぶりは悪かけれども、神様生かして使うて下さい。私のような者でも使いようがあるならば、どこの端にか使うて下さいという、切なる願いといったものがね、先日から頂きますように、願いそのものの光りによって、その光りは照り返してくるといわれるくらいですから、だから、願いでもやっぱピンからキリまであります。
神様に喜んで頂けるような願い。そこに、そんなら一心に壮健で繁盛するよう、元気な心で信心せよという、一心で、それこそみずみずしいまでに生き生きとした、心で神様へ向かう。そして汚いものは、その日その日に新たに流していく。
それをもう、何年前にあげな悪かこつしたと、いつまででん、心に残るような事じゃいけないという事。
もう、それは許された世界に私共はおかげ頂かねばならない。それが許されるも許されないも、自分の心次第なんだ。使い方次第なんだ。
同じ事で一人の人は、いうならお気づけを頂いとる。そうすると一人の人は同じことがらで、その事でかえっておかげを頂いとるというようなですね。
だから今日、私は、おかげの受けられるという高橋正雄先生のまあ、大変御無礼ですけれども、当時そういわれるんです、お詫びの高橋、お礼の甘木、願いの玉水と、いわれた事を私は、今思い出させて頂いてです、結局おかげを受けたのは、そんなら甘木であった、又は玉水であったという事になります。
だから、見ること見ることも大事です、やはり、けれどもね、こういう例えば汚い私、こういう曲がった根性の私でも、かくまでのおかげを頂いておる事は、勿体ない事だというお礼になってこなければいかんわけです。だから、おかげの世界というものを知らなければいけないという事。
信心とはおかげの世界をいよいよ広げていく事。ですからどちらを向いても有難うございまずという事になるという事。何をしても、だから有難い事になってくる。
こうしちゃならん、こういう事はつつしまにゃならんといったような事でも、つつしみが出来ないような場合がある。そういう時に自分はこげな悪い事をしよるけん、罰かぶるじゃろうと思うから、罰かぶる。
だから、そういう心をです、流れ川三尺で、スキッ、スキッと洗い流してゆけるような信心の稽古。
今日私はこの、特に砌という、皆さんよう覚えといて下さい。石偏に切と書いちゃる。どういう、どういう節であってもです、それをお礼の対象として頂けれるような信心。それでも、どうしても自分の心の中に、不浄が起こってね、もう神様の前には出られんといった時には、ひとつ本気でお役に立ちたい、お役に立ちたいという一念を燃やしなさい。
そして、それこそもう何でもよいから、お便所のお掃除でもええ、草取りでもいいそして、それこそ、いうならば、自分の心の上にお詫びの印といったような、例えば御用が出来ますとです、その御用の後には許されたという気が必ず起こるです、 不思議に。
その許されたという心が、おかげをキャッチするんです。だから、いうならば、詫びて詫びて、詫びぬいてというところにはね、実に謙虚で素晴らしいです。
けれども、そんならおかげにはちょっと縁が遠いような気がするです。願うこと、お礼を申し上げる事、これならば、それこそ願い以上のおかげを下さるし、お礼を申し上げたら、もういらんというても又、下さってあるというのが甘木で頂いておられるおかげ、又は玉水で頂いておられるおかげ。そんなものを今日は感じるです。
今日は病気災難の根は切れると、こう、それを根を切っていくという事と、そんなら、一心に壮健で繁盛するよう、元気な心で信心せよという。そこんところに焦点をおいて聞いて頂いたわけです。
どうぞ。